それが、彼女との最初で最後の出会いだった。
その後、一度も来る事がなかったし、十年以上も経っていれば忘れていたってしょうがないだろう。
彼女の願いは
愛娘の幸せ
そして、娘の幸せによる夫の幸せだった。
彼女は、簡単に「娘の幸せ」と言うが、それは難しい。
その、娘が何によって幸せを感じるかなんて、本人にしかわからない。
それを言ったら彼女は、ハッキリとこう言った。
「娘の記憶から私を消して欲しいんです」
「どうして?」
娘が母の存在を忘れれば、夫は楽になるだろう。毎夜のごとく、泣き叫んで家中を探し回る事もなくなるし、娘が母の存在に縛られなければ、まだ若い夫は再婚だってし易くなる。
「それが、この子の幸せだから」
「どうして?」
正面に座る彼は、同じ言葉を繰り返す。
店の中は薄暗いが、落ち着いた感じで居心地がいい。
自然なランプの明かりがそうさせているのも知れない。人口の蛍光灯なんかよりも、自然と気持ちは穏やかになる。
中央には机があり、その上にはキラキラと光るアクセサリーや小物。壁に沿って置かれた高さがバラバラの棚の中にはガラス細工などが置いてある。
店の端にあたるこの場所は、丸テーブルを囲んで椅子が4つ。
その上には切り取られて変な形のイチゴケーキと紅茶ポットにカップが2つ。娘の前にはオレンジジュースが置いてある。
少年の顔を伺い見るが、その表情からは何もわからない。
そもそも、真面目に聞いているのかどうかも分からない。
娘は娘で彼の手作りケーキに夢中だ。
そんな、馬鹿馬鹿しい空気に次第に感情は高ぶってくる。
「どうして・・・って。だって、この子にはまだ・・・。幼い、この子が母親を失うショックは大きすぎる。あなたにはわからないの?母親という存在の大きさを」
自分でも何を言っているのか分からない。
けれど、子どもにとっての母親はとても大きな存在で、変わりなどありえない。
それは、きっとこの少年にもわかるだろうと思っての問いだった。
「生憎、僕にはそれは分からない。最初から存在しないものの大きさを知るなんて、不可能な事だ」
表情一つ変えずに彼はそう言った。
分かりにくい答えだが、それは彼に母親の記憶がない事を示している。
「まあ、でも・・・貴女がそれを望むのなら、僕はそれを実行しよう。そうする事が僕の仕事だから」
続けて彼が言った言葉は、予想もしないものだった。
返ってくる言葉のニュアンスから、否定的だと思っていたからだ。
真っすぐに見据えてくる彼の視線は、少し痛い。何の感情も篭らない冷たい視線。
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